『キャプテン・アース』最終話に寄せて~真夏ダイチに内包された「キャプテン」という運命の此方から彼方を思う~

「僕がキャプテンかどうか、僕にはわからない。でも、空から来るアイツは止めなきゃ!」
そう言って、ロボットに乗り込んだ少年は、
「僕がキャプテン・アースだ!」
そう確信を得て、地球に帰ってきた。
そんな彼が見上げる銀河はどうしようもなく美しかった。


監督の五十嵐卓也と脚本の榎戸洋司は、無配小冊子にて『キャプテン・アース』をこう総括している。

榎戸 現代的な主人構造を模索して思いついたのが、日常生活の中で、すでにロボットのパイロットになる要素が内包されている少年、でした。主人公のダイチは、地球が星間戦争に巻き込まれていると知る前から、すでに、アースエンジンのドライバーになる直感のようなものがあった。”あるべき自分”の姿を直感している男の子の物語、を描くのは、今、現代的かもしれない、というのが僕の直観です(笑)。
――もう少し詳しく伺えますか?
榎戸 それまで自分とは関係がいないと思っていた世界に、思い切って飛び込んでみると、そこで自分にできることが見つかったり、あるいは違う世界が見えてきたりすることがある。それってワクワクするし、実はリアルな話だと思うんすよ。日常生活に対する不満を起点にしながら、そんなふうに世界が広がっていく様を冒険として描けないかな、と。
――夏休みを使って、自動車の免許を取りに行く、というのに近いんでしょうか。
五十嵐 そうそう(笑)。今の子供たちって、選択できることがすごく多いと思うんです。どれでも選べるという状況が目の前にあるなかで、どれを選ぶかは本人の意思になる。例えば第1話のダイチには、種子島に行くか、友達や女の子と一緒に旅行に行くかという選択肢がある。結果的に彼は、種子島に行くという選択をするわけですけど、それは結局、偶然なんですよね。でも、後で振り返ってみると、そのときに下した選択が彼の中ではある種の必然として捉えられる。「あのとき、車の免許を取りに行ったのはこのためだったのか」ということが、あとでわかる。そういう見方ができる物語になればいいな、と。
榎戸 合宿で免許を取りに行ったら、そこで走り屋のお兄ちゃんと知り合って。ドリフトを教えてもらったら、「お前、筋がいいな」って言われて、走り屋になって、そのままプロのレーサーになっちゃう……みたいな(笑)

真夏ダイチの手は、キャプテンとしての運命を内包し、彼に必要なものすべてを選べる。彼の直観や決断は、とにかくスマートだ。射撃の腕はまったくあがらないのに、必要なときに必要な的をドンピシャで当ててしまう。最初から答えしか掴まず、あらゆる理由や原因は、後からついてくる。そういうところが、かっこよくてたまらない。


そんな彼のひと夏は、榎戸洋司の作品を追ってきたファンは特にたまらなかったはずだ。
少女革命ウテナ』のファンとして、「あの時ウテナからすり抜けてしまった手」を強烈に覚えている。

どこかに落ちゆく手がつかめれば、確実にその人を救えるわけではない。事実、あの時のウテナは、確かに棺の中からアンシーを解放した。それでも、あの手が掴まれていたら……ということを夢想してしまう。
あの作品を見て以来、「何かをつかむ」という行為に弱い。心の奥底の弱点を突かれたような気になってしまう。その姿さえ見せてくれれば、もうそれだけで十分だと思ってしまう。


そうそう、『ウテナ』のあとに見た、五十嵐・榎戸タッグ初作品『桜蘭高校ホスト部』はちょっとした衝撃だった。

「桜蘭高校ホスト部」Blu-ray BOX

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アニメオリジナルで描かれた作品の終盤が、男装女子であるハルヒが、ホスト部の部長・環(王子様!)を学園に引き戻す話だったからだ。しかも、「バイパス」を通って*1
作品はホスト部お決まりの挨拶で終わり、彼らの関係性やホスト部そのものが永続する象徴のように描かれる。何だか、お姫様を救う王子様を無事連れもどした鳳学園のようにも取れる。

榎戸さんが関わる多くの作品には、「全能感」というワードがついてまわる。これは、作品によって少しずつ違う形で描かれるが、いくつかのインタビューを読んで、総括するとこんなようなものなのだと思う。

全能感――選ばれし者が持つ特別な力の源。欲したものがすべて手に入ってしまうことへの恍惚感、そして、失ったあとには輝くもの、過去の時間に対する追体験願望の象徴となる。

作品内の具体的な言葉で言えば、「光さす庭」「エキゾチックマニューバ」「メロスの戦士」「トップレス」なんかがそれにあたるだろう。
能力そのものや、選ばれたことによる肩書、またはかつての思い出。様々な形で、全能感は描かれる。
そして、特に重要なのは、それらには「卒業」がつきものということだ。

榎戸 子供は全能感の夢を持つものだろうな、と思うんですよね。たとえばディズニーランドとか遊園地とか映画とか、そういう娯楽はみんな、魔法の世界を疑似体験させてくれるものであるわけです。サンタクロースを信じさせなんていうのも、そういったものの一つだと思うんです。それらの夢は、決して子どもの成長には悪いことじゃなくて、善いものとして機能しているんですよ。ただ、そんなことを本気に信じている大人がいると、それはやっぱり大人ではない、ってことなんですね。だから、どこかで僕は、今度は子供に信じていても安全な世界から、今度は子供に信じさせてあげる大人のそばにいかにシフトしていくか、というか、シフトさせていくための装置になれば良いかな、とか思っています。P.217 『comic 新現実Vol.3』

Comic 新現実 Vol.3 (単行本コミックス)

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私が、榎戸洋司が関わる作品が好きなのは、サンタクロースを本気で信じていたあの頃を思い出すからだと思う。輝かしい過去の追体験(大した思い出はないのだが、子どもの頃というのは、もうそれだけで何か輝くものがどこかにある、たぶん)。そして、その魔法を卒業した切なさにも酔いしれたりするわけだ。
それでも、その郷愁に必要以上に酔うな、拗らせるな。その恍惚感によって自分を見失うな(ビーパパス!)。というのが、榎戸さんが関わる作品から読み取れるメッセージのひとつだろう。
だから、アニメ版『ホスト部』のラストで、あえて「取り戻す」形にしたのはやっぱり印象的だった(当時、原作未完結だった『ホスト部』の場合は、「この段階ではまだ卒業すべきではない」というのがあったのだろうけれど)。。何よりホスト部のメンバーは、「選ばれし者」であることにまったく酔っていなかった。


そんな『ホスト部』の王子様(作品的には、「殿」と呼ぶのが正しい)須王環を演じた宮野真守氏が、『スタドラ』の主人公を演じたことによって、ちょっとした関連性を見ようとしてしまう。
これはひょっとして全能感に狂わなかった王子様がさらに掘り下げられている話なのではないか、と。

STAR DRIVER 輝きのタクト Blu-ray BOX

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『スタドラ』の有名な台詞のひとつに、ヘッドの「何が綺羅星だよ、馬鹿馬鹿しい!」がある。彼は、自分こそが、「全能感(作中では銀河美少年や外の世界でサイバディに乗れる者)を使いこなす者」だと思いこみ、「全能感に焦がれる者」を馬鹿にしている。しかし、実際は彼こそが全能感という感覚に振り回されてしまっていることを裏付けるようなセリフになっている。
一方で、「全能感を使いこなす者」としてタクトが描かれている。彼は、「やりたいこととやるべきことが一致した者」であり、誰にも見えない景色が、「見えている」。狂わなかった王子様だ。
ヘッドになくて、タクトにあったものって何だろうか。たぶん、「より素直に現実を認められるセンス」なんじゃないかと思う。

つまりね、いい女とかいい男は人間性が高い、というのが僕の持論で、さいとう先生はそれを作品と自身で体現してる方なんだよ。
~中略~
人間性の高さというのは、その必要条件として、まず現実をより素直に認められるセンスの高さがいるのだと思う。理解の深い奴はすなわちやり手なわけだから、セクシャリティは高い。
『花冠のマドンナ』2巻末エッセイ「セクシャリティの構造」

榎戸さんは、さいとうちほ先生の『花冠のマドンナ』にこんなエッセイを寄せ、さいとうちほ作品の魅力や『花冠のマドンナ』のヒロイン・レオノーラを解説しつつ、「ウテナにめざしてほしかったもの」を語っている。しかし、ここで言及されている「センス」は、何もウテナだけに求められたものではない。
タクトの「現実をより素直に認められるセンス」は、選ばれし者特有の能力をも制御の内に置く。ラストでワコが、タクトにあっさり自分のサイバディを破壊させるのもセンスあってのことだろう。あの場面で、お互いにしたいこと、やれると確信する能力の高さ、潔さがあの宇宙の夜明けへと繋がっている。


そして、「より素直に現実を認められるセンス」は、『キャプテン・アース』で未来視にも似た直感を発現させているんだと思う。
一話で、「どうしたらいいんだ」と嘆くところから、一気に「僕に何が出来る!?」って問い返す彼を見て、確信した。真夏ダイチの手は、彼が掴もうとするもの、すべてを掴める。
最終回まで見て改めて言えることなんだけど、やっぱり、あのセリフって、「僕なら何かが出来る」って前提がある。ダイチは、それまでの人生や日々の不満から、「キャプテンの運命が内包されている」ことを直感している。でも、答えまでのピースが足りない、目の前の少女はそのヒントを握っているはずだ。でなければ、この場所で会っているはずがない。そういう情報処理を行った上で、問いかけている。そして、問いかけと同時に出現したライブラスターが手元にあることが一つの回答になっている。

より素直に現実を認められるということは、情報処理速度が高いということだ。理由は上手く説明できないけれど、答えだけを引き寄せてしまう能力。これは、ミッドサマーズナイツ全員が共通して持っている能力でもある。逆に言えば、だからこそ彼らは、自身の感情を後回しにしがちで、チームに会うまで孤独だったとも言える。ダイチは、キルトガングを迎撃するためアースエンジンに乗り込んだ時に、「二度も死にかけて怖くないのか!」って聞かれて、「怖いです。だって僕ただの高校生ですよ」って答えるし、ハナは、ダイチ以外は干渉できないブルーメに入る決意をあっさりする。テッペイにしても、アカリにしても同じだ。彼らは、未来を信じて、その場で一番いいと思える決断をする。

キャプテン・アース」である真夏ダイチは、今までの榎戸洋司が描いてきた主人公たちの挫折や魅力を一挙に背負っていると思う。彼の一挙一動が、台詞がいちいち胸を打つ。最っ高にかっこよかった。毎話、毎話、惚れ惚れした。好きで好きでたまらなかった。

前作『スタドラ』でタクトが、「ああ、すごいな。でも僕たちは、これとは違うもっとすごい空をきっと見るさ」と言っていたけど、実はあまり信じられなかった。もちろん、彼らはあの最終回以降、南の島から出て新宿行ったりなんかして、きっともっとすごいことをやるんだろう。でも、一視聴者からしたら、「宇宙の夜明け」以上の景色があるのかって。青春真っ只中の銀河美少年だから出てくる台詞なんじゃないの?榎戸さんが繰り返し言及している全能感とどう違うの??正直、そんな疑念が湧いてしまうほどに、『スタドラ』の「空」は素晴らしかった。

でも、そんな疑念を簡単に真夏ダイチは、ふっ飛ばしてしまった。オーストラリアに来た彼が、「初めての海外なのに、任務のついでなんて……」と言っていて、ハッとした。宇宙に飛び立ち、地球防衛戦に参加している彼は、ただの高校生だった。
真夏ダイチにとっては、宇宙の景色は特別ではないし、ただの過程でしかない。ライブラスターの引き金を引くぐらいに自然なこと。あのときのタクトも同じようなことを考えていたのかもしれない。過程で観た景色である以上、当然違う景色だって見られるだろう。そして、どの景色を見るかを選ぶことが出来る。
真夏ダイチにとっての特別は、種子島の風、テッペイやハナ、アカリがいる景色、そして、地球から見上げた宇宙だった。

アンシーが出て行った学園の外にはこんな広い世界があって、タクトが見た凄い空とはもっと違うすごい銀河がある。
「キレイな銀河だな。やっぱり僕はこの星から見上げる宇宙がいっちばん好きだ」
キャプテン・アースが最後に帰ってくる場所に選んだのが、この世界だったことが何よりうれしくて、愛おしかった。



キャプテン・アース VOL.2 初回生産限定版[Blu-ray]

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*1:『劇場版ウテナ』では、出口だと思っていた城がハリボテだとわかった後、影絵少女が「左にバイパスが見えるわ!」「そこで降りて、元の世界に逃げるのよ!」と言っている。バイパスというワードは2回出てきて、一つ目は、箱庭の出口を示し、二つ目は、元の箱庭世界への帰り道を示している