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『サムライフラメンコ』最終回によせて~これは「愛」ではなく、「愛と正義」の話だ。

20161220 追記
記事の存在すら忘れていたけど、某スケートアニメの感想を見ながら、この記事を書いたことを思い出した。当時、よく見かけた感想をそのまま使っているとはいえ、差別用語が記事内に堂々ぶら下がってしまっていることを今さらながら恥を覚えたため、一部用語を変更しました。不適切な用語を使用し、長年放置してしまい、申し訳ございませんでした。

サムライフラメンコ』最終回にて、男同士の恋愛が描かれていたと話題になっている。

突き詰められた男同士の友情が、どうせまた性愛っぽいと受け止められたのだろうと思っていたら、正義が、1話からサムライフラメンコの理解者であり続けた後藤さんに「結婚してください!」と叫んでいた、全裸で。私もまた叫んだ。しかし、いちいち巻き戻すことなどしない。伝説のキスシーンと個人的に名高い『No.6』6話から3年が経ち、私もまた湧き上がる情動をリモコンにぶつけることは止めるようになった……。こんなことで、大人になってどうしようというのだろう。しかし、そろそろオリジナルBL作品を手掛けることをノイタミナには望みたい。2014年の枠は、埋まってしまったらしいので、2015~16年に絶大な期待を寄せる。

さて、しかし、正義のプロポーズとその後のやりとりが、ただの「恋愛的感情が結実したから結果」として、解釈されてしまうのは、釈然としない。正義が目覚めたのは、性愛ではなく、ヒーローの師たる要さんや、マネージャーとして彼の活動を支え続けた石原さんが説いた「愛」だと思うのだ。

実際、彼は、あの熱烈なプロポーズ以降、彼に一度も触れていないのですよ。もうちょっと、熱烈に抱きしめたり、キスしたりしていてもいいだろう。男の子同士の友情を重んじていた『No.6』でさえ二回もキスしていたのから、彼らだって、ハグぐらいしてもおかしくない、はず。せめて、正義が、あのへたり込んだ、後藤さんの色気にあてられる素振りとかあってもいいのでは。

それまでにも、それっぽい描写は、まぁまったくなかったとも言わないのですが、性愛的な描写かと言われるとまた違うのかなと。少なからず、後藤さんには彼女がいて、彼女を愛する後藤さんを正義は友人として応援していたのではないかと思う。

悪を倒す「正義」から、敵と対話する「愛」へ

では、なぜ、正義は、後藤さんにプロポーズしてしまったのか。自身の気持ちが、「愛」だと確信したのか。
そのために、『サムライフラメンコ』全体を振り返ってみましょう。『サムライフラメンコ』は、全部で5編で構成されていると考えています。

1~6話 サムライフラメンコ誕生編→マナー・ルールを説く大人らしい大人
7~10話 キング・トーチャー編→仮面ライダーのようなピンヒーロー
11~16話 フロム・ビヨンド編→戦隊ヒーロー
17~18話 フラメンコ星人編→宇宙の概念を書き換えるヒーロー
19~22話 澤田灰司編→ヒーローではなく、個人として成し遂げる正義(愛)

ここは、本題ではないので、ざっくりと書きますが、澤田灰司が指摘するように、サムライフラメンコはあらゆるヒーローを成し遂げた存在です。悪役の動機も、悪への憧れとか、生物の進化とか、大体は抑えている。仲間との協力も、上層部からの裏切りも、後藤さんと正義の仲違いなど、シチュエーションも網羅。18話「宇宙でフラメンコ」では、「フラメンコ」という単語の意味も明かされ、最終回を迎えたようと言われていましたよね。

実際、19話からは、「正義をやり尽したヒーローは、どうしたらいいのか」ということを描いた、エピローグ的なものだと思うんですね。ここでのキモは、「キング・トーチャー編」で正義が危惧し、しかし扱えなかった、「相手が人間だったら」という葛藤の解消です。かつて、サムライフラメンコとして説教をかました、実在する中学生・澤田灰司に、正義はどう向き合えばいいのか。

これまでの敵たちであれば、それなりに対話をして、お互い、「戦うこと」をノルマとして納得していた節があるけれど、灰司は違う。彼の動機は、普遍的な悪の信念ではなく、サムライフラメンコそのものであり、「正義」を執行して、倒す(社会的・生命的な抹殺)ことでは救えない。だから、正義は悩む。彼を倒す、もしくは、自分が死ぬでは、問題を解決したことにはならない。そう考える中で、要さんや石原さんが説いた「愛」は、「正義」に代わる、新しい悪への向き合い方なんですね。

その結論に至って、正義は初めて、悪との対話と受容を試みることが出来る。これは、サムライフラメンコでは出来なかったことで、羽佐間正義という個人に課せられた新たなノルマだと思うんですね。灰司に詰め寄る正義が、全裸なのは何とも彼らしいなと。関係ないけど、「パンツを脱ぐ/脱がない」で作品を評するアニメ監督の方々を思い出しました。それぐらいしないと、人に熱意って伝わらないよねー。(ほんとか

喪失感を埋め、あなたを救うための「愛」

さて、そんな熱烈な愛の提示のあとの、例のプロポーズについて。灰司と対話をするには、「正義」ではなく、「愛」を持たなければ向き合えないと描きましたが、これは後藤さんに対しても同じだと考えています。普遍的な「正義」ではなく、個人に向き合うための「愛」が必要。というかですね、誕生からずっと理解者であり続けてくれた人が、心の拠り所を失って、「ひとりになっちまった!」とか言ってるのに、「結婚しましょう!」も言えないで、一体誰が救えるんだ、と。果たして、そいつはヒーローと言えるのか。そういう話ですよ。

後藤さんという人は、高校時代の彼女が行方不明になってからずっと、喪失の痛みを避け続け、ついでに言えば、今も彼女に操を立てて、童貞でい続けている人なんですよ。それは、彼の生活に正義が入り込んだ後も、ずっと変わっていなかった。何度も正義の家に上がって、カレーを食べたり、特撮ヒーロー観たりして、一緒に過ごしてきたのに、後藤さんの喪失感は全く埋まっちゃいなかったのです。あまつさえ、アイドルのまりが、思いを寄せてきていて、しかも、居候までしているという据え膳状態なのに、まったく手を出してない。

それなのに、「僕は、あなたのことが好きです」とか、「これからも、僕が一緒にいるから、あなたは一人じゃないんです」なんて、正義にはとても言えないんですよね。何かしらの責任をとって、自分の存在を、後藤さんの喪失感を埋めるものに発展させなければならない。そう考えたときに、彼が参照するものは、あくまでも自分が見続けてきたヒーローものなのではないかと思うんです。その中で、結実した愛の形として「結婚」という言葉を提示するのは、至極自然だなと。「お前に何がわかるんだ」と責められて、ぐっと詰まって、どもりながらもこれしかないと確信する正義は、おバカだけど、眩しく映る。これを、愛だと呼ばずに、何を愛だと呼ぶんだ!と(笑)

こうして、「正義」をやり尽したヒーローが「愛」を獲得する。それが、『サムライフラメンコ』のエピローグだと思います。そして、「愛」は、地球や宇宙を救わないけれど、自分の大事な人の個人的な問題を解消し、救うことが出来る。これが、「キング・トーチャー編」での、「人間が敵になってしまうこと」や、キング・トーチャーの「ヒーローは孤独だ」という言葉に対する回答なんです。それは、ビヨンド・フラメンコが、「お前と俺が似ている」理由にも通じるのではないかなと。もし、後藤さんが灰司を殺していたら、サムライフラメンコはビヨンド・フラメンコのようになっていたのかもしれない、と。
あらゆる悪の可能性を、正義の心と愛の力で薙いでいく。『サムライフラメンコ』は、そんな物語だったのだろうと思います。

同性愛/異性愛の書き分けについて

恋玉コレステロール

恋玉コレステロール

補足として、『サムライフラメンコ』の同性愛の描き方についてです。本作のヒロイン・まりが所属するアイドルグループ・ミネラル★ミラクル★ミューズの関係性って、後藤さんと正義の関係を読み解くヒントになるのではないかなと。彼女たちの関係はこんな感じ。

まり→ヘテロ。女の子とキスするのに抵抗はない。他の二人が同じぐらい好き。
みずき→ヘテロ。まりと萌のイチャイチャには、ちょっと引いてる。アイドルとしてのまりに惚れてる。
萌→ビアン(?)まりに崇拝と言っても差支えないほどの好意を持つ。キスにも積極的。みずきのことは、二番目に好き。

BL的関係性ばかりに目を奪われていましたが、彼女たちの絡みも濃い。まりが、自分にはない「かっこよさ」を持っているくせに、自分を好いてくる萌を全力で拒絶するシーンとか、生々しいんですよね。

で、後藤さんと正義の関係性というのは、「萌とまり」というよりは、「みずきとまり」に近いものだと思うんですね。先にも書いたように、正義は、「愛」が何かはわからないけれど、わからないなりに、覚悟と儀式を伴う「結婚」という言葉を選んだけで、萌のような好意は示していない。だから、性的に好きかはわからないけれど、これからも一緒にいるし、辛いときは支え続けるということかなと。それは、みずきのスタンスでもあり、正義の得た「愛」の形でもある。

サムライフラメンコ』の最終回では、確かに熱烈なプロポーズが見られた。一見突飛なアイデアに思えるそれは、ヒーローである正義の歩みと振り返りに支えられたものであり、そこには私たちが計り知れない「愛」が詰まっている。そんなことを思いながら、最終回のプロポーズシーンを見返しています。