【感想】『想像ラジオ』~「想像すること」と「不謹慎」のはざまにて~

こんばんは。

あるいはおはよう。
もしくはこんにちは。
想像ラジオです。

こういうある種アイマイな挨拶から始まるのも、この番組は昼夜を問わずあなたの想像力の中だけでオンエアされるからで、月が銀色に渋く輝く夜にそのままゴールデンタイムの放送を聴いてもいいし、道路に雪が薄く積もった朝に起きて二日前の夜中の分に、まあそんなものがあればですけど耳を傾けることも出来るし、カンカン照りの忠実中に早朝の僕の爽やかな声を再放送したって全然問題ないからなんですよ。

 本作は、想像力を電波にして、DJアークが送る「想像ラジオ」の挨拶から始まる。
 どうやらDJアークは、大震災にて起きた津波に流され、「細くて天を突き刺すような樹木のほとんど頂点あたりに引っかかって、仰向けになって首をのけぞらせたまま町並みを逆さに見」ている状態で、ラジオを放送しているらしい。作中で、リスナーに指摘されているように、彼は死者なのだ。

「不謹慎」から逃れるには

 本作が示唆しているのは、震災以降、「不謹慎」という言葉が及ぼす「想像力」への影響なのではないかなと。
 「生者である我々が死者の声を想像し、安心してしまうことは、単なる自己満足で不謹慎なことだ。」死者、ひいては弱者の立場に立ち、彼らを代弁することを意識した声は、震災以降から特に増えたように思うんですね。
 まさしくそのことが、『想像ラジオ』第2章において、被災地でボランティアを続ける青年たちによって議論されている。家族を亡くした被災者や亡くなった人の直接的な心情を語るということは間違っているのかもしれない。しかし、死者の声を聴こうと耳を傾ける行為は禁止できないという木村宙太の言葉に対し、ナオ君は次のように返す。いくら耳を傾けようとしても、苦しい思いをして亡くなった人の悲しみは理解できるわけがないし、思い上がりだ。もし、聞こえたとしても、彼らの心情は理解できない、と。
 「死者の声を聞くこと」に対する議論は平行線のまま、第2章は終了する。一度も単語として出てこないが、両者の主張は、そのまま「不謹慎」というワードに結びついているように捉えられる。

 そもそも、「不謹慎だ」という態度は、なぜ出てきてしまうのか。ここで、私は『あの日見た花の名前を僕たちはまだ知らない』を思い出すんですね。それは、『あの花』という作品が、「死者を悼むこと」をひとつの軸として描いてるからなんですよ。

 以下、『あの花』のあらすじ。物語の中心にいるのは、マスコットキャラクター的存在・本間芽衣子めんま)の死をきっかけに、疎遠になってしまった小学生の仲良し6人グループ「超平和バスターズ」だ。高校1年の夏の終わり、超平和バスターズのリーダー・じんたんの元に突然死んだはずのめんまが現れ、「お願いを叶えて欲しい」と頼まれる。そのことをきっかけに、別々の生活を送っていた6人は再び集まり始める。

 当初、超平和バスターズのメンバーは、死んだはずのめんまのお願いを聞いたというじんたんに対して、気まずさや反発を覚える。じんたんが病んでいるように見える以上に、「死んでしまった子」を口にすることへのためらいがあるんですよね。
 彼らは、同じ仲良しグループのメンバーだったのにも関わらず、5年経った今も病的に悲しみ続けるめんまの母に対する遠慮や、死者の声を想像することへの良心の呵責によって、「死を悼む当事者」になれていない。「めんまが死んだのは自分のせいだ」という自責の念を抱え、彼女の死をトラウマにしてしまっている。
 死者の声を想像することで、人の死というトラウマから救われる人間がいる。そのような存在を「不謹慎」だと切り捨ててきたことで、超平和バスターズのように、死者を悼むことが出来なくなってしまった人々が出てきてしまうのではないでしょうか。
 『あの花』では、最終回にて、「めんまの声」を聞くことによって、超平和バスターズのメンバーは、めんまの死と向き合い、疎遠になってしまったグループを再編することに成功するんですね。

 超平和バスターズが一時はためらい、しかし、達成した「死者の声を聞こうとすることで死を悼む」ということが、震災以降さらに口にしにくくなっているということが『想像ラジオ』では示されているように思います。
 第4章にて、第2章の「死者の声に耳を傾けること」に対する議論のきっかけをつくったSは、「死者との対話」を行っている。彼の話し相手は、震災の半年前に亡くなったという「君」だ。Sとの会話の中で、「君」は、自分の妹の義父は、「見知らぬ者の死」を引き起こした大震災に傷つき、精神的にまいっていたと語るんですね。

 「自身に実害のない死」に病んだ義父。
彼の苦しみは、自分以上に悲しむ人がいたはずと思い込んでいる超平和バスターズのメンバーに近いものがあるのではないのではないかなと。彼らに対しても、ナオ君が主張したように「死者の気持ちは理解出来ないのだから、ただの思い上がり」という言葉は通用させてしまっていいのか。

 第4章で、Sは、この国で起きた多くの災害のあと、「僕らは死者と手を携えて前に進んできた」と語るんですね。そして、「いつからかこの国は死者を抱きしめていることが出来なくなった」とも。「この国では、死者へ想像力を働かせることを身勝手」だと感じる人々が増えているのではないでしょうか。
 自分の身近な人と、会ったこともない人の死は、まったく違う。しかし、それでも顔も声も知らない人の死に傷つき、死者の声を想像し、悼むことで癒される人がいる。そして、それが許されなければ、当事者以外のすべての人が死を悼むことに罪悪感を抱くようになってしまうのではないか。
 「死者の声に耳を傾けること」その是非はわからない。でも、「不謹慎だから」と思考を止めてしまうのではなく、自分なりの答えを出して、周りと折り合いをつけていかなければ、私たちは死者に顔を背けたまま、向き合うことが出来なくなってしまうのではないか。
そんなことを『想像ラジオ』を読みながら、考えたのでした。

想像ラジオ

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